トンネル博物館見学の翌日はサラエボ市内観光へ 平和の祭典と言われるオリンピックに沸いた街が数年後には戦場と化して多くの市民が犠牲となったサラエボ 年代的にどうしても紛争・負のイメージが先行してしまう街ですが四半世紀の時を経たサラエボの姿は如何に? 西と東の文化が混ざるサラエボ街歩きの様子まとめデス
(2019.08.11&2019.08.12現在)
サラエボ市内観光(8/11)
ラテン橋
サラエボと言えばラテン橋!! ということでサラエボ市内観光はここからスタート
第一次世界大戦の引き金になったと言われるサラエボ事件が起きた場所としてとても有名な場所
1941年6月28日 サラエボ視察中だったオーストリア皇太子夫婦が19歳のセルビア人により暗殺、暗殺から1ヶ月後の7月28日にオーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し第一次世界大戦が開戦 と歴史の教科書で学んだまさにその場所
歴史的な橋だと思ってアチコチから橋の写真を撮ってみましたがオーストリア皇太子夫婦の乗った車列は橋は渡っておらず暗殺場所に近かっただけと知りました ※暗殺場所は橋のすぐ近く現サラエボ博物館前で皇太子夫妻は川に架かる橋は渡っていなーい 橋のすぐそばのサラエボ博物館には当時の資料を沢山展示
バシュチャルシア広場
バシュチャルシア広場 旧市街にある小さな広場で中央にセビリ(水飲み場)があります なんでもこのセビリの水を飲むと再びサラエボを訪れることができると言われているそうでしっかり飲んで来ました♪ フツーに飲めるいい水でした
山に囲まれているせいか近くにも湧水がありました 欲張りなのでセビリの水同様こちらの水も飲んだのでサラエボにはまた来れるハズ
サラエボ包囲時は電気はおろか水道もストップしたので市内に住む住人はスナイパーから狙撃されるリスクがあっても井戸水や湧水を汲まなければなりませんでした
Yellow Bastion
見晴らしのよい場所を求めてバシュチャルシア広場の北東にあるYellow Bastion(黄色い要塞)という史跡へ 建設に使用された黄色い岩にちなんでの名前らしいです
この場所はかつての城壁都市ヴラトニックの入り口に造られた要塞跡で現在はカフェが営業中 写真の席はカフェの席なので注文しないと座れませんが敷地内は注文せずとも自由に立ち入ることができサラエボ市を一望することができます
手前から旧市街地、その先に新市街地と続きます 西方向に開けていて夕映えスポットとして有名で日没時は人気のようです
ミリャツカ川を望む 山に囲まれたサラエボ 山手エリアをセルビア軍が包囲してしまったのでサラエボは袋のネズミ状態 それも4年
国連軍がいなかったらどうなっていたのでしょう?
麓に広がるお墓 多くの人が亡くなった為、公園やサッカー場が次々とお墓に変わりました オリンピックスタジア周辺の空き地も墓標で埋め尽くされました
墓地の真ん中にある一際立派なお墓は1990年にボスニア・ヘルツェゴビナの初代大統領となった アリヤ・イゼトベゴヴィッチのお墓
任期中のほとんどがサラエボ包囲下でボスニア人からはDedo(トルコ語で祖父)の愛称で親しまれた人物である一方、セルビア人からは戦争犯罪での訴追を求められました
2003年に亡くなった後、この場所に埋葬されましたが2006年に墓は何者かによって爆破、現在のお墓はトルコのイスタンブール市によって建てられたもの
人種・宗教・立場が変れば見方も評価も変わる 戦争は単純な善悪で計れないのか?
周りのお墓はサラエボ包囲で命を落とした人たちのお墓 ボスニア人の多くがイスラム教
亡くなった年はみな1992年以降、そして生まれた年は同年代か少し先輩という年
麓に降りてきて 欧米人にやたらの評価の高いTeahouse Dzirlo 満席でした!! (なのでスルー)
名物店主(白髪の方)がもてなすGoogle評価 4.9 という人気店 宜しければ是非に♪
雰囲気のある路地裏
再びバシュチャルシア広場 鳩メチャ多し…
このエリアはオスマン帝国時代から続く歴史ある地域で独特な雰囲気のあるエリア 郷土レストランやコーヒー店、銅細工屋が沢山あり旅行者が絶えない一番の観光スポット
ガジ・ヒュースレフ・ベイ・モスク
ガジ・ヒュースレフ・ベイ・モスク 1500年代に建てられたボスニア・ヘルツェゴビナ最大のオスマン建築様式のモスク 見学料は3KM ※観光客が入れる時間には制限があるので注意
八角形の独特な東屋の水場が涼しげでgood 冬のオリンピック開催地なのでもう少し涼しいかと思いましたが案外暑くてビックリでした
写真には写っていませんが高さ47mのミナレットは遠めでないと上手くカメラに収まりません、、、
内観はGoogleさんに任せます
そのガジ・ヒュースレフ・ベイ・モスクがある通りを少し西に進むと東と西の文化が出会うという境界線があります ありましたが写真を撮っていなかった(;^_^A アセアセ・・・
境界線から西のフェルハディア通りは雰囲気がガラリと変わって東のトルコ風から西のヨーロッパ風になります
新市街地(西洋市街)
街の雰囲気が変って登場するイエスの聖心大聖堂 高さ43mの2つの尖塔を備えたネオゴシック様式の教会 1887年に建てられたのでオスマン帝国が衰退し、その後オーストリア=ハンガリー帝国統治が始まった頃となる
ガジ・ヒュースレフ・ベイ・モスクから僅か300mでガラリと別世界となるギャップ萌え
市場 ネオルネッサンス様式で1894年に建てられたお洒落な外観の市場 この日は素通り…
フェルハディア通り オーストリア=ハンガリー帝国時代の建物が並ぶツーリストで賑わう西側の目抜き通り
東のオスマン帝国時代のバシュチャルシアから西に進むにつれてサラエボは街が新しくなる 更に西へ進むとサラエボ・シティ・センターがあるミレニアム市街地へ続きます
サラエボ包囲時の銃弾痕がそのまま残るビル このような建物は珍しくなく気づけば街のアチコチにあったりします
アリ・パシャ・モスク 小さいながらオスマン帝国時代の16世紀に建てられたモスク サラエボ包囲時に激しく損傷したらしいですが銃痕跡もなく綺麗なモスクでした
夕暮れの旧市街
19:30 夕刻と夕食に合わせトラムでバシュチャルシア広場へ 広場は昼にも増して沢山の人でいい感じです
良さげなレストランが沢山あるエリアで夕食はNanina Kuhinjaという郷土料理店で 何を注文すれば正解だったのか分かりませんがジャガイモと牛肉の煮込み鍋を注文 (値段は失念)
Googleレビュー高評価のお店だけあって選んで正解のお店 雰囲気も味も良かったデス
トワイライトタイム♪ 空のグラデーションがメチャクチャ綺麗 オリンピック後の紛争イメージが強いサラエボでしたがこんな素敵な街だったとは 百聞は一見に如かずです
手前のモスクがガジ・ヒュースレフ・ベイ・モスク、真ん中の奥のモスクがアリ・パシャ・モスクになります
バシュチャルシア広場近くの銅細工店街はこの日が日曜日だった為か広場に沢山の観光客が居るにも関わらず戸閉でした
エキゾチックな雰囲気の素敵なトルコランプはこの国は何処なの? と思ってしまいます
歩いて帰るので暗くなる前にテクテクまた西へ 永遠の炎が灯される建物前広場では夏の野外コンサートが開かれるところでした
ステージの裏に永遠の炎が燃えているハズなのですが ステージが近すぎるせいかその炎は消されていました
永遠と謳っていながら消されるのね…
途中アイスクリームも食べならがら大通りを歩いて帰ります 日曜日のせいかホコ天で地元の人も夏の一夜を楽しんでいました
サラエボ包囲時は視界の開けた通りはスナイパーに狙撃されてしまうためこのような通りは絶対に歩けませんでした
あれから約30年 この先もずっとアイスクリームを食べならが歩くことができますように
テキトーに過ごすサラエボ(8/12)
骨休みを兼ねて4泊滞在したサラエボ 最終日は特に行き先を決めることなく散歩程度のお出掛け 課したミッションは2つ ボスニアコーヒーを飲む&床屋に行くデス
お散歩テクテク
最終日はダラダラとした朝を過ごし、テキトーな時間にコーヒーと床屋を求め街へでかけました
写真は半地下Airbnbを外から撮影したもの 建物には沢山の銃弾跡 よく見れば窓の金網も何発か着弾 確実に部屋の中まで弾が入ったことが分かります 滞在先の部屋ですら紛争とは無縁ではなく、死が珍しくなかったことを改めて実感
建物全体を見てもアチコチに銃弾の跡 包囲されているので市外に逃げることも出来ず、電気・水道・ガスも無い中4年
ベリキ公園にあるサラエボ包囲で亡くなった子供達を追悼する記念碑 公園と言う場所がら多くの子供がこの近くで犠牲になりました
記念碑の近くでは公園近くで亡くなった子供達375人分の名前が刻まれたオブジェ 生きていれば子供を持つ親になっていただろうに
そして追撃砲弾跡にはサラエボローズ このサラエボローズは気づけば街の至る所にあります
比較的新しいものもあれば風化してしまい今にも枯れそうな薔薇もありました 風化させてはいけないのでしょうが時間と共に薄れてしまうのは事実
歴史は繰り返すのか? 争いのない世界は実現できるのか? 本当に難しい問題
永遠の炎 夜のコンサート会場はすっかり撤収されていて永遠の炎が何事もなかったように燃えていました
シラを切っているようでしたが消えていたのはしっかり目撃済み 政治家や大人はウソつき この世に永遠というものはありません
昨日素通りした市場を覗きます
なんか寂しい… チーズなどの乳製品や乾燥牛肉などタンパク質系が主に売られていましたが人はチラホラでした 人が多く集まる市場では沢山の人が亡くなったそうです
建物を抜けた先には生鮮市がありました やはり沢山の人が亡くなっているそうです
包囲時の食べものは生鮮品など手に入るハズもなく国連援助による缶詰や豆類といった穀物など 24時間買い物ができる日常しか知らない人にはいくら想像してしきれません
人道に対する罪と虐殺に関する博物館 んー 負の観光遺産見学はとりあえずもういいかな?
バシュチャルシア広場までテクテク このエリアは本当にザ・観光地 コーヒー屋さんも沢山あるので良さげなお店を探します
選んだお店はSlatko Coseというお店 ボスニアコーヒー1杯2.5KM もちろん銅製のセットでのご提供♪
オスマン帝国の支配下にあったのでトルココーヒーと同じ、粉状のコーヒーを水から沸騰させて煮出して、粉が沈んだ上澄みを飲むというスタイル
作り方は別として濃さで言えばエクスプレッソに近く、苦みが強いコーヒー そのまま飲むとハードなので角砂糖を入れて好みの甘苦さ感を楽しみます もしくはコーヒーに角砂糖を漬けて角砂糖を食べる
馴染みのないコーヒーですが甘さと苦さのバランスが合えば心地よいハモニーだったりします(飲み慣れが必要になるのかな?)
まぁ 課題をクリアーしたのでOKです
コーヒーを楽しんだ後は昨日お休みだった銅製品を扱うお土産通りへ お店がしっかり開いた通りはもはやヨーロッパじゃない!! ここどこよ?
先ほど飲んだコーヒーセット類の他、職人さんによる様々な銅製品を扱うお店が軒を並べ、店内を覗くだけでも楽しい通りです
この雰囲気で見るから素敵なので1セットだけ買っても日本では浮いてしまう お洒落にするなら全体的なコーディネイトが必要かと…
灯りの灯っていないトルコランプも素敵でしたよ ここどこよ?
ミレニアム市街
紛争時の建物もまだまだ残りますが紛争が終わってから建てれたビルがあるサラエボ・シティ・センター界隈 旧市街エリアには観光客向けのお店ばかりが目立って床屋は結局宿泊先エリア近くで見つけました
サラエボ・シティ・センター 着工2008年、Openは2014年と紛争も知らなければ、銃弾跡もない建物 なのでこのエリアはミレニアム市街(勝手に命名) 滞在先から近く、スーパーもあったのでとてもお世話になりました
ショッピングセンター内にはKimonoというお寿司屋さんも入居 ヨーロッパの他諸国で食べるより安かったので食べておけば良かったかな…
見つけた床屋さんはそのサラエボ・シティ・センターのすぐそば(つまり宿泊先スグ近)
床屋らしい看板もありませんがHair Club というお店 最後の散髪はアメリカ出国前 これから西に向かうので高くなってしまうだろうということでサラエボでの散髪を決意
お店は夫婦で経営しているらしく旦那さんがカット 英語が話せないので英語が通じる奥さんにオーダーし、奥さんが旦那さんに通訳する伝言ゲーム
ここで私のサラエボ事件が勃発!!
奥さんに全体的に2cmぐらいカットして下さいと伝えたハズがファーストカットでバッサリ
気づいた時にはUndoが効かず、結果は2cmほどのギバちゃんカットになってしまいました!!
お陰で帰国するまで散髪要らず 短いながらもテクがあったので2つ目の課題もクリアーしてサラエボ終了
気になる散髪代は20KM(約1,200円)でした アメリカの半額でした
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次はもっと上手に旅します
超まとめ
- サラエボの見どころは永遠の炎からサラエボ市庁舎までの1kmに多い
- サラエボシティセンター~市庁舎なら2kmちょっと 東西移動はトラムで(1.8KM)
- Yellow Bastionは墓地もサラエボの町並みも見学でき、夕陽鑑賞にもGood
- ガジ・ヒュースレフ・ベイ・モスクは見学できない時間帯があるので注意
- サラエボは異なる街並み文化が同時に楽しめる素敵な街♪
- 出かける前にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 について勉強すること
- 床屋のオーダーミスには注意!!
- 一度は飲もうボスニアコーヒーとセビリの水♪
関連リンク集
- Visit BiH ボスニア・ヘルツェゴビナ観光情報サイト
- Visit Sarajevo サラエボ公式観光サイト
- サラエボ博物館 第一次世界大戦の引き金時間がよく分かる博物館の公式サイト
- bascarsija.info バシュチャルシヤエリアの観光情報サイト
- Nanina Kuhinja 郷土レストランNanina Kuhinjaの公式サイト
- Sarajevo City Center 2014年にしたサラエボの大型ショッピングセンター
- omio.jp ヨーロッパ各地の鉄道・バス・航空券の最安値検索サイト