物価高のドブロブニクから逃れるようにして出かけた次の訪問地はサラエボ オリンピック開催もその後のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争もしっかり記憶にある年代としてブカレスト同様に訪れてみたかった地
今回はドブロブニク~サラエボ移動、翌日に出かけたサラエボトンネル博物館見学のオハナシです
(2019.08.09~2019.08.10現在)
ドブロブニクからサラエボへ(8/9)
8/9はサラエボへの移動日、バスの出発時間は13時でしたが暑くて物価の高いドブロブニク 午前中は特に何もせずチェックアウト11時までのんびり過ごしてから移動開始しました
アクセスマップ
ドブロブニク~サラエボまでのアクセスルートはこんな感じ クロアチアのドブロブニクは飛び地になっており途中 出発から100kmの間に3回の出入国審査があるレアルート サラエボまでの距離は約280kmですが入出国・休憩含め移動に6時間掛かるという時間の掛かるルートでした
12:00 チェックアウト後、クルージュ湾近くのカフェでブランチを食べてドブロブニクのバスターミナルに到着 出発までは1時間ほどの待ち時間
バスターミナルは立派な建物のくせに待合スペースが極セマ 椅子が少ない上に多くの客でごった返しているのであまり早く行かない方がいいかもしれません 荷物預けは10Kn トイレ利用は有料で3Kn WiFi、充電用コンセントとありますがいかんせん混んでます
13:00 ドブロブニク発、利用バスはCentrotrans(たぶん…) サラエボまでは2人で370.6Kn(1人約3,050円) バスに預ける荷物は荷物代として1つにつき1€徴収されました
バスターミナルを出発して最初の100kmで3ヵ所のパスポートコントロールがあります 特に面倒な国境越えではないのですが3回ともなるとそれなりに時間がかりました
それぞれの到着時間と所要時間はこんな感じ
14:00~14:05 最初の国境 国境を越えてネウム(Neum)で休憩あり(14:10~14:35)
14:50~15:05 次の国境
15:35~15:50 最後の国境越 ここまでで約3時間!! 普通はもっとスムーズ?
ボスニア・ヘルツェゴビナ内ではチャプリナ、モスタールのバスターミナルに寄り最後の休憩はヤブラニツァ手前のZdrava voda (有名レストランらしい)というレストランで18:00~18:30の休憩
サラエボバスターミナル
19:50 出発から7時間掛かりようやくサラエボのバスターミナルに到着 特に渋滞があったワケでもないのですが時間掛かり過ぎ
バスターミナルは新市街地エリアにあるので旧市街地に宿がある場合、歩くには少し距離があるのでトラムで移動 バスターミナルからトラム乗り場までは東へ少し歩きサラエボ鉄道駅から1番 もしくは南へ歩き大通りから2、3、5番トラムで移動
サラエボの宿(Airbnb)
サラエボでの宿は新市街エリア ショッピングモール店Sarajevo City Center近くのAirbnbに宿泊 ワンルームアパート丸貸物件で1泊4300円 料金は安いとは言えませんでしたが1泊、2泊での移動が多かったので骨休みも兼ねて4泊お世話になりました
広々としたスペースに滞在に必要な全てのモノが揃っていて利用したAirbnbの中でBest5に入る良物件でした
キッチンは狭いものの冷蔵庫にはゲスト用のちょっとした食材まで用意されていました(パスタ・牛乳・卵・アイスクリームなど料金に含む)、バスルームの洗濯機(洗剤含む)も自由に使え何1つ不自由することなく過ごせました
部屋は半地下で窓の外を楽しむ造りではありませんでしたが、サラエボですら暑い夏にちょうどいい温度と湿度を提供してくれ快適に寝ることができ、一日部屋に居ても快適に過ごせる物件でした
この日の夕食はSarajevo City Centerモール内のMetropolisというレストランで食べ、写真の料理で21.5KM(約1,350円) ドブロブニクより物価が安くなりました
サラエボ・トンネル博物館へ(8/10)
翌日はサラエボの負の観光遺産のサラエボ・トンネル博物館へ
1992~1995年にかけて起こった内戦ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 その紛争中ボスニア人が住むサラエボ一帯をセルビア軍が包囲してしまった時(サラエボ包囲)に空港滑走路によって分断、孤立してしまった地区に食糧品などの物資を運ぶために住民達が自力で掘ったトンネルの一部を残し博物館として公開しています
共産圏初の冬季オリンピックの開催地サラエボ そのサラエボオリンピックもその後の紛争も記憶がある世代としてチャウシェスク遺産同様やっぱり訪れてみた場所でした
アクセスマップ
トンネル博物館は空港滑走路の南側に位置し市街地からは距離があり公共交通でアクセスする場合はトラムとバスを乗り継ぐ必要があります
中心部からアクセスする場合はトラムでIlidzaまで行きそこからバスに乗り換え、最寄バス停からは徒歩約800mとなります
中心部から行く場合は3番(または6番)のトラムを利用 トラムの料金は距離に関係なく1回1.8KM(約110円) 降車駅は終点駅のIlidzaとなります チケットは停車場近くのキヨスクか運転手から購入 チケットは乗車時に打刻機で打刻して有効チケットとなります
Ilidzaバスターミナル
トラムの降り場とIlidzaのバスターミナルは隣接しているので降たところがもうバス乗り場 迷うことはありません
トンネル博物館行きのバスは32番 バス代は1回1.6KM(約100円) チケットは運転手から購入した気がします… 乗車済みという証にチケットの端をちぎられます
降車バス停
降車バス停は空港滑走路の東端に近いDonji Kotorac okretnicaというバス停 予めオフラインマップにマーカーをしておきましょう
バス停のすぐ東はスルプスカ共和国(セルビア人共和国)の領土 共和制国家であるボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体の1つでサラエボを包囲したセルビア人が多く住む地域(もう一つがボスニア人とクロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦)
紛争時にバチバチしあった間柄、平和となった今でも民族的には別社会という単一民族の日本人からしたら理解しにくい難しい問題があったりします
バス停近くの看板 バス停からは小さな小川を渡って住宅街の中の道を800mほど歩いて到着となります
バス停近くには沢山のお墓 比較的新しい墓地なのでサラエボ包囲で犠牲になった人達のお墓と思われます
激しい銃撃戦の跡が残された民家 紛争がなかればフツーの住宅地のフツーの家 それまで普通に生活していた場所がある日を境に銃弾が飛び交う戦場と化す 人間の排他的な考えが狂気となって膨れ上がってしまった爪痕が今なお残ります
激しい銃撃戦の跡が残るトンネル博物館に到着 トンネルは滑走路の北側から掘られたどり着いた先がこの家だったそうです
見学料は1人10KM(約600円) クレジットカード・ユーロは使えないので現金を用意
営業時間:09:00~17:00 (冬季は09:00~16:00)
博物館内の様子 そこまで立派な施設ではありませんが30年前に実際に使われたトンネルはもちろん当時の武器や道具、映像、写真資料が展示されリアルさが伝わります
天井に吊るされた砲弾があるかと思えば床にも砲弾が埋まっていました サラエボを取り囲んだセルビア軍 豊かな兵力と山手という地理的優位からサラエボに対し容赦ない攻撃を加えました
サラエボ包囲の期間中(1992年4月5日~1996年2月29日)、1日平均329回の砲撃があり、最も多かった日の1993年7月22日は1日で35,000回以上の砲撃があったそうなので銃痕がない家の方が珍しいのかもしれません
ボスニア軍が使用した武器 ユーゴスラビア人民軍によってもたせられたセルビア軍の強力で豊富な武器に比べボスニア側は旧式の僅かな武器で対抗 防弾チョッキは自作したモノもありました
空港により寸断された補給ルートを確保するために人々の手によって彫られたトンネルへ トンネルは1993年の3月から4ヶ月で完成しその全長は800m!!
殆どが塞がれてしまい現在博物館で体験できるのは25mのみとなっています
高さ約1.6m 空港滑走を横切る形で作られたトンエルにはレールが引かれ様々な用途のトロッコが往復しました
僅か20mで出口の光が見えてしまう博物館のトンネルでしたが当時は1km近く進まないと陽の光が見えない状態 手掘りの小さなトンエル 紛争終結を迎えるまで大動脈として使用されたこのトンエルはどれだけの命を救ったのでしょう?
館内には戦時中の様子を映したビデオや包囲された地域で活動する市民の姿を映した沢山の写真を見ることが出来ます
当時はオリンピックの選手村が砲弾だらけになっていたりサッカー場がお墓にされたりと断片的な映像記憶がありますが博物館に来てさらに昔の記憶が蘇りました
トンネルを使って負傷者を移動する様子の展示 食糧や武器の確保、時には家畜もこのトンネルで移動したそうです
サラエボ包囲の様子を説明した図 白いエリアがボスニア勢力、それを取り囲む赤い部分がセルビア勢力 サラエボ国際空港は国連の管理下にあり守られていましたが空港滑走路によって隔てられた地域は完全に分断
いくら国連管理下にあるとはいえ、ひらけた空港の付近の活動はスナイパーの標的となってしまうため滑走路を横切る形でトンネルが作られました
滑走路の下を通るトンネル位置を示したジオラマ 空港南に位置したブトミル地区はトンネルがなければ無縁孤立状態
包囲されていた当時は山手に陣取ったセルビア軍がスナイパーを配置し、見通せる位置に市民が出ただけで狙撃される状況でした
トンネルの出入り口となったのはコラル一家の家 意図したわけでなく掘り進められた出口がたまたまこの家だったようです
当初は個人での博物館でしたが改修され正式な博物館に 一家は引越し先を斡旋され息子さんは正式な館長として定職をゲットしたとの事でした 良かったね
博物館にはモーガン・フリーマンやジョン・トラボルタ等世界的有名人が訪れた写真も飾られていました
敷地の一部にはセルビア軍が設置した地雷の展示もありました
こちらはセルビアのZastava(ザスタバ)社のトラック あらゆる物資が減るサラエボでは貴重な戦力だったことでしょう
紛争を伝えるジャーナリストの拠点として利用されていたホリデーインホテルの写真 当時建物半分は破壊され、電気も水もない状態でしたが外国人ジャーナリストを受け入れて営業 日本人ジャーナリストもここを利用し内戦の様子をレポートしました (ボスニア内戦民族紛争の事実 前編 後編 By Youtube)
その建物は今も健在でHotel Holidayとして営業中 トラムが走る大通りに建っていて中心部からアクセス途中に見ることができます
博物館前にもサラエボローズがありました サラエボローズは悲しい事件を忘れず後世に残すべく、また犠牲者の哀悼も含め着弾跡を赤い樹脂で埋めたものでサラエボ市内のあちこちで見ることができます
ある期を境に今まで平和に暮らしていた人たちが民族というくくりで争い、戦争に発展
セルビア人、ボスニア人、クロアチア人 それぞれに複雑な事情はあるかと思います
サラエボではセルビア人が包囲してボスニア人が攻撃を受けたという構図でしたが条件が違えば逆だったかもしれません
単純な善悪で片づけられる問題ではなく、人間は時として個・集団で狂気に走り、争いに走ってしまう性を秘めています
繰り返される戦争をどうしたらなくせるのか? 難しい問題をまた考えさせられた大人の社会見学の一日となりました
帰りのトラムは年期の入ったトラムでした
サラエボの市電は定期運用されたトラムとしてはヨッローパ一番古い歴史を持ち、その運用は1885年からとなるそうです
サラエボ包囲で多くのトラムが破壊された後、復興を進める際に様々な国からトラムを譲り受けたことで国籍や年代の違う様々な車両が走るという結果になりました なので市内を走るトラムの姿もイロイロ、是非チェックしてみてください
戻る途中バスターミナルに寄り、次の目的地へのチケットを購入しました
次の目的地はクロアチアへ再入国 クロアチアの首都ザグレブとしました チケット二人で108KM(1人約3,300円) ※チケット代の他にターミナル利用料(or発券手数料?)のような料金が追徴されました
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次はもっと上手に旅します
超まとめ
関連リンク集
- Libertas Dubrovnik ドブロブニクバスターミナル
- Visit BiH ボスニア・ヘルツェゴビナ観光情報サイト
- Visit Sarajevo サラエボ公式観光サイト
- サラエボ・トンネル博物館 サラエボトンネル博物館公式サイト
- Sarajevo City Center 2014年にしたサラエボの大型ショッピングセンター
- Centrotrans Centrotransバスの公式サイト
- Eurolines ヨーロッパ各国を結ぶ大手バス会社 Eurolines公式サイト
- omio.jp ヨーロッパ各地の鉄道・バス・航空券の最安値検索サイト