デスバレー国立公園を後にして向かった次の目的地は以前から訪れたいと思っていたマンザナー国立史跡 第二次世界大戦中に日系アメリカ人を強制収容する為に全米で10か所造られた収容所の1つで国立史跡として開放されている負の遺産観光地
同じ日本人として一度は見学してみたかったマンザナー強制所の様子をじっくりまとめてみました
(2019.05.29現在)

デスバレーからマンザナー国定史跡へ

 

アクセスマップ

デスバレーを後にした次の目的地は以前から訪れてみたいと思っていたマンザナー強制収容所

前回ブログを終えたデスバレー国立公園看板からは約80km 約1時間の道のり ※デスバレーのビジターセンターからは約190km 2時間ちょっとです

 

道中の道 US-395号線

デスバレーから続く190号線から395号線に合流しローンパインの町を過ぎ北上、左手にはシエラネバダ山脈がどこまでも連なる マンザナー収容所はそのシエラネバダ山脈の麓にあります

 

マンザナー強制収容所

11:20 マンザナー国定史跡(日系人収容所)に到着 まだ雪が多く残るシエラネバダ山脈から吹き降ろす風が冷たい

マンザナー収容所は第二次世界大戦中1942年3月21日から1945年11月21まで3年8ヶ月に渡り運営された日系アメリカ人強制収容所で1935年に最後の住人が居なくなった廃村跡地に建てられました 1920年頃まではリンゴなどの果樹園が広がる一帯だったのでスペイン語のりんご園を意味する”Manzanar”と呼ばれていました

全米に10ヶ所あった日系アメリカ人強制収容所の1つで、多い時でこのマンザナー収容所にはには1万人以上の日系アメリカ人が収容されていました(全米では11万人以上)

 

ビジターセンター

ビジターセンター

かつての収容所が国定史跡として認定されたマンザナー国定史跡ビジターセンター 元々はマンザナー高校の講堂として1944年に建てられたものでダンスパーティーも開かれた集いの場

マンザナー国立史跡はビジターセンター内の資料館、収容所跡地も全て無料で見学することが可能

営業時間 ビジターセンター: 09:00~16:30 収容所跡地: 夜明けから日没でセルフ見学可

 

ショップ

ビジターセンター内にはショップも併設 日系アメリカ人強制収容所に関する書籍などお堅い内容がラインナップされている他、日本に関連するテーマだけあって和小物も販売されていました

 

ビジターセンター

館内展示スペースへ 第二次世界大戦勃発後にアメリカに移住していた日系人の排斥、送還、収容所内での暮らしぶりを分かり易く展示 (説明文が全て英語なのがちょっと残念)

展示の締めは レーガン大統領時代にこの収容所は間違っていた”race prejudice, war hysteria and a failure of political leadersihp”と正式謝罪する映像が流されています 正式謝罪の後、収容者には1人当たり20,000ドル(約220万円)の慰謝料が支払われたそうですが正当な理由もなく自由を奪われた対価としては安すぎると思いました

 

展示室

展示スペースの様子 辺鄙な場所にある為か、テーマによるものか分かりませんが来場者は少な目ですが日本人なら是非訪れて欲しい場所 ワシントンのホロコースト記念博物館のような残虐性はありませんがある日を境に生活が一変 それが同じ日本人ルーツとなると見学にもおのずと熱が入ります

 

当時の建物配置の様子

当時の収容所の様子が分かるジオラマ 約1平方マイル四方の敷地に36のブロックに分けられたバラックには最大で約1万人の日系アメリカ人が収容されました

バラックの合間には、畑や果樹園、リクリエーションのためのコートや運動場(剣道場・柔道場も)が設けられた他、収容された人々が働く工場も造られました

 

収容者名

天井から吊るされたスクリーンには収容された方々の名前が映し出されています 収容された日系アメリカ人は素行などの問題で判断されたわけでなく、ただ単純に“日系人”であるという民族の括りのみで収容されました

 

新入居者への掲示物

新しく収容された人に対する注意文 アメリカ人と思って普通に暮らしていた人がいきなり囚人扱いになるという不条理さ

 

収容所内見学

 

ビジターセンター内を見学した後はセルフドライブにて収容所を見学します

 

収容所内マップ

案内板

かつての収容所敷地内にあった建物は全て取り壊されており見学できる建物は全て修復されたもの 見学できる建物はBlock14と呼ばれるエリアの2棟、トイレ棟、食堂棟の4棟 残りは屋外見学となります

 

収容所マップ

Googleマップに落とした主な見学場所 基本車での移動となりますが周回する見学路は反時計回りに一方通行なので道順に沿って見学します

 

Block14

14地区には2つの復元バラックが建てられており上の図のような配置となっています

  1. 収容所の初期の居住スペースの様子
  2. ブロックを治めるブロックマネージャー室
  3. 長い収容所生活の過程で改良された居住スペースと忠誠心調査についての展示
  4. 学校の教室を再現

 

居住バラック

最初のセクション 開設初期の居住スペースの再現展示 1棟あたり4部屋に区切られて、20フィート21部屋に8人(2家族)が生活 支給品は裸電球1個の部屋にストーブ、ベッド、毛布、マットレスだけでした

当初あてがわれた部屋は急ごしらえの為、隙間風が吹き込み冬は寒く、夏は砂埃が酷かったそうです

鎖後は全て取り壊して建材として転売された為、かつての建物で現存する建物はありません

 

居住バラック

収監にあたっての十分な準備時間はなく、持ち込める荷物にも制限が課せられました

“We could only carry what we could carry, and my suitcase was full of diapers and children’s clothes.”

各収容所は真珠湾攻撃の翌年(1942年)に開設され、戦争が終結した1945年には閉鎖されましたが 収容所に移される際に全財産を失ったなどの理由でそのまま収容所内に留まる人も少なくなかったそうです

ナチスの収容所と違い到着後に没収されることはありませんでしたが酷い話です

 

事務室

2番目のセクション ブロックマネージャー室 物品の支給や郵便窓口等に使用された部屋の再現

1ブロックに居住バラックは14棟、トイレ・洗濯棟計4棟、食堂棟1棟が設けられ、1ブロックに最大300人程が暮らしました 収容所にいる間人々は住所、名前、そしてID番号が記された名札を常に携帯する必要があったそうです

 

運動場

運動場 バラック1とバラック8の間にバスケットコートが再現されていました

 

バラック棟跡地

かつてバラックが建てられていた場所にはバラック番号が書かれた立札だけが残されています

 

居住バラック例  居住バラック例

三番目のセクション 3年間の間に住人達によって改善された居住スペースの様子 1万人もの人口があれば様々な職業の人がいるは当然、家具が作れる人は家具を作り少しでも生活環境を良くしようと努めました 教会や野外劇場、新聞編集室などがあった他病院もあり、3年間の間で生まれた子も少なくありません

 

展示物

同じく3番目のセッション 忠誠心調査に関する展示やかつての収容者達の証言を集めた映像展示があります

収容された日系アメリカ人にはアメリカ政府に忠誠心があるかどうか下記のような調査を受けました

  • あなたは米軍に従軍する意思はあるか? また、従軍した際に、どこの戦地へも出征する意思はあるか?
  • あなたは米国へ忠誠を誓い、米国をいかなる脅威から守る意思があるか?
  • また、あなたは日本国天皇or自国への忠誠心を放棄する意思はあるか?

政府による強制収容とこの忠誠心調査は日系アメリカ人同士に大きな亀裂を生じさせ、収容所内では、争い事や揉め事が起こったそうです

 

学校バラック

4番目のセクションは 学校に関する展示 収容所内には子供も沢山いたので当然学校(幼稚園から高校まで)もありました

 

教室の様子 教室の様子

幼稚園と小学生以上のクラスの復元展示 教室は綺麗に復元され過ぎていてちょっとリアリティが欠けていました 子供が一番多かった時でk-12人口(幼稚園から高校)で約2100人の子供が収容所内にいたそうです

アメリカで生まれた子供たちは何も分からずそれまでの生活が一変 戦争の一番の犠牲者は子供という言葉がありますが本当にそうかもしれません

 

収容所内でのスポーツ大会

学校行事に関する年表 高校にはフットボールやバスケットチームもあったそうです よく考えれば収容所に収監される前はフツーに学校へ行き、クラブ活動もフツーに行っていたのですから・・・
 

トイレ棟

トイレ棟(奥が食堂棟)

食堂棟近くにに再現されたトイレ棟(女子) 各居住棟にはトレイ・シャワーは整備されていないので共同トイレの利用となりますが・・・

 

共同トイレ  シャワー室

トイレ・シャワーには仕切りなくプライベートがまるで考慮されていません それに冬は寒すぎじゃないか?

 

洗面台

洗面所 鏡は無かったのでしょうか? お湯が出たようなのでそこは救われます

 

食堂棟

食堂棟

最後の見学は食堂棟 各ブロックに大きな食堂棟が1つ 1日3食 毎回約300食の食事がこの食堂棟で提供されていました

 

規律を守る日系人

収容所が開設された当初は全てのブロックが整っていなった為、1つの食堂で800人分の食事を3交代(朝昼晩だと2400食!!)で提供したこともあったそうです

 

食堂棟 食堂棟

配膳所と食堂の様子 ここで300人分の食事を提供するなんて想像ができません スペースと時間が限られていた為、子供の行儀が悪くなった 食事の躾ができないという不満もあったそうです

 

耕作風景

収容所内には畑や果樹園、養鶏所もあり自給自足に勤めたそうです 日本人のやる事だから良く働き、より良い作物を作ろうと努力したことでしょう

 

食堂内でパーティー  餅つき大会

収容所の中で暮らす人はそれまで普通の生活をしてきた普通の市民 季節ごとパーティーや餅つきが行われるなどして制約がある中でも努力工夫して暮らしていた様子が見て取れます

お鈴
お鈴
1マイル2の閉ざされた世界 子供達にはどう説明したのでしょう・・・ 本当に胸が詰まります

 

日本公園と慰霊塔

日本庭園

ブロック14以降は車で移動しながら立ち寄りスポットを巡ります 最初は収容者の手によって造られた日本公園

 

日本庭園  日本庭園

マンザナーを含む各地の収容所では苦しい生活から解放されることを目的に庭造りが盛んに行われ、各ブロックで競うように庭園を造りました 34ブロックの住人によって造られたこの庭園はマンザナー収容所の中でも最も精巧な庭園とされています

日本庭園の奥にはリンゴなどを栽培した果樹園もあり、現在も名残を見る事が出来ますが車ではアクセスできないので庭園だけ見て先に進みます

 

慰霊碑

慰霊塔 シエラネバダ山脈を背景に建つ真っ白な慰霊塔
収容所では延べ135名が亡くなり、そのうち15名がこの地に埋葬され、残りの方は故郷の墓地に埋葬されたそうです

 

献貨  献貨

慰霊塔の傍らには日本ならではの千羽鶴、慰霊塔にはMay you find peaceYou are love と書かれた置き銭が置かれていました

人間根っこは皆同じなのですがほんの僅かな違いから争いが生じます 最近ではコロナ禍にアジア系アメリカ人襲撃がニュースとなりました 平等で平和な世界はまだまだ程遠いのでしょうか?

お鈴
お鈴
平和だからこそ自由に旅行ができます 全ての地域で争い紛争がなくなりますように…

 

外周フェンス

収容所の周りを取り囲むフェンス 僅かな手荷物だけでこの何もない地に強制送還された人の想いはどれ程のものだったのでしょうか? フェンスの外の景色をどのような気持ちで眺めたのでしょうか?

想像しても想像しきれせんが本当に切なさでいっぱいになりました

 

工場跡とゲート

工場跡地

周回コースの終わり近くには、かつて工場が建てらていた工場跡地があります 工場では陸軍が使用する迷彩ネットが作られていましたが、作製に当れるのは2世である米国市民のみとされていました

 

収容所ゲート

周回路の終わりはMPが詰めていた検問所があり、出入りするすべての車がチェックされました

この場所周辺のエリアは監視スタッフ用の住居が建てられてた場所となります

 

消防署

消防署

周回道路をぐるっと回り最後に訪れた消防署(ビジターセンターの近くので最初に見てもOK)

 

消防署

1942年7月1日~1945年6月30日の間に起きた火災は全部で91軒f 内18件が食堂棟、27件がバラックでの火災 消防隊員は収容所の住人で給料は消防隊員は月16ドル、署長は月19ドルの月給を得ていたそうです (カモフラージュネット工場の月給も16ドル)

有事の時は大変ですが普段は仕事らしい仕事がないので人気の仕事だったそうです

 

消防車

建物の中には当時の消防車が残されていました

 

監視塔

監視塔 収容所の周囲にはこのような監視塔が8塔置かれ、機関銃を携えた監視兵が常に監視していたそうです

 

US空軍爆撃機

見学終了時、空を見上げると空軍の爆撃機らしき機体が上空を停飛行していきました

戦争に関する負の遺産観光の後に戦闘機を見てまた切なくなりました

 

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またしても雪…

 

395号線を北上して南下

14:30 想像以上にガツンと来てしまったマンザナー収容所で3時間以上滞在した後 北に向かって出発

収容所見学の後はキャンプ場探し、特に決めていませんでしたがUS-395号線沿いにいくつかキャンプ場があるので北上しながら良さそうなサイトに落ち着く作戦

 

 

16:00 マンザナー収容所から北上するうちに標高がどんどん高くなりマンモスレイク(標高2,400m)またしても小雪が舞いだしてしまう 気づいたらマンモスレイクはマンザナーの倍の標高・・・ これ以上北上してキャンプをしても寒いだけなので素通りしてきたビショップまで戻り、大人しくモーテルに泊まるコトに決める

 

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立寄ったVonsスーパーの駐車場でビショップの宿をネット予約し、夕食のおかずとなるチキンを購入して16:40頃 今来たばかりの道を60km以上引き返すことに。。。

 

Trees Motel


17:35 マンモス・レイクスから67km 小一時間かけてビショップまで戻り、町中のTrees Motelにチェックイン 1泊64.98ドル×1泊 選んだ理由は単純ビショップの町で一番安いモーテルだったから

US-395号線から168号線に入ってすぐと分かりやすい場所にあり立地はまずまず 昔ながらモーテルですが室内はリノベーションされておりフツーに快適

 

Trees Motel Trees Motel

部屋の様子 他にコネクトルームやキッチン付の部屋もあるようです

前泊はデスバレーでT-シャツで快適な夜でしたがまた寒い夜に逆戻り 暖房が効く部屋に泊まれて何よりでした

 

Erick Schat’s Bakkery

 

特に観光スポットらしいスポットがない街道沿いの小さな町ビショップの中でMust Goの場所がこのErick Schat’s Bakkery

ビショップのみならずかなり名の知れた有名店 店の前を3度も通ったにも関わらずスルー(後で有名な店と知りました)してしまい、嫁サマに寄らなかったことを責め続けられたので他の人が同じ過ちを繰り返さないようココで宣伝

  • 住所: 763 N Main St, Bishop, CA 93514 US-395号線沿い
  • 電話: +1 760-873-7156
  • 営業時間: 06:00~夕方 曜日による休みは無し
  • URL: chatsbakery.com/

 

名物SheepHerderパン

看板商品は1938年以来店の顔となっている羊飼いパン 厳選した素材を使い、一つ一つ手で成形し石釜オーブンで焼き上げるそうです

 

商品ラインナップ

https://schatsbakery.com/より

名物羊飼いパンの他にも様々な商品が取り揃えれているようです 日本のパン屋さんより充実した品揃えかもしれません

 

スィーツも

https://schatsbakery.com/より

サンドイッチや焼き菓子、スィーツもあるようなので1度の来店では足りないかも

 

In and around Bishop and Big Pine - Erick Schat's Bakery

店内の様子 Google レビューも4000件以上で4.7というハイスコア です 寄らなかったことが悔やまれます

寅吉
寅吉
この時の話になると必ずグチられます 近くにお出掛けの際は立ち寄り必須です

 

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次はもっと上手に旅します

 

超まとめ

  • マンザナー強制収容所は日本人が絶対行くべき負の観光スポット しかも無料!!
  • カリフォルニア州は他州に比べガソリンが高い 特にUS-395沿いは高かった
  • マンモスレイクは標高2400mあるので寒さに注意 リゾートタウンで物価も高い
  • デスバレーからの温度差が30度以上あった 温度変化・体調には注意しましょう
  • ビショップを通過した際はErick Schat’s Bakeryに寄らないと嫁が(*`・з・)ムッ
  • アメリカンドライブ本日の走行距離: 約405km 累計走行距離: 8,329km